ルーペで見る《アモルの接吻で蘇るプシュケ》

《アモルの接吻で蘇るプシュケ》

《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
大理石 高さ1.55m、幅1.68m、奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館
© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
 

分析

この人物たちは?

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翼をつけた青年が、気を失った乙女が横たわっている岩の上に今降り立ったところです。これはラテン語でクピドとも呼ばれる愛の神アモルです。翼や、矢筒をもっているのことから識別できます。乙女の名はプシュケ、アモルの母である美の女神、ヴィーナスは、プシュケに冥界から瓶を持ち帰り、そしてその瓶を決して開けないようにと厳しく戒めます。

しかし、好奇心旺盛なプシュケは、瓶を開けてしまい、瓶から立ち昇る耐え難い臭気を吸って仮死状態に陥ってしまいます。気絶したまま横たわるプシュケを見たアモルは、プシュケの元に駆けつけ、矢の先でそっと触れて、まだ生きているのを確かめ ます。カノーヴァが捉えたのはまさに、この瞬間で、アモルは愛するプシュケを優しく抱き上げ、彼女の顔に自分の顔を近づけます。プシュケは身をゆっくりと後にそらし、けだるい動作で、恋人の首に手を回します。

カノーヴァは、古代ローマの作家、アプレイウスの『変容』に書かれた伝説をもとにこの像を作りました。そこには、神々が話し合いの結果、アモルとプシュケの結婚に合意し、プシュケに「魂の女神」という地位と永遠の命を与えたと書かれています。
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>側面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
側面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2003 Musée du Louvre / Pierre Philibert
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>後面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
後面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>後面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
後面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2003 Musée du Louvre / Pierre Philibert
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2003 Musée du Louvre / Pierre Philibert
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>側面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
側面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2003 Musée du Louvre / Pierre Philibert
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2003 Musée du Louvre / Pierre Philibert
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
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プシュケの物語

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昔々、王様とお妃様との間に、とても美しい娘が三人いました。そのなかでも末っ子のプシュケが一番美しく、周辺の住民から、まるで女神のように崇拝されていました。美の女神、ヴィーナスは、それに対して激しい嫉妬と怒りを覚え、プシュケが人間のなかで最も卑しい男に恋に落ちるように、息子のアモルに、復讐を命じます。ところが、アモルは、美しい人間の娘プシュケを見るなり、愛の虜になってしまうのです。

プシュケの父親は、娘がその美貌にもかかわらず、いまだに独身でいることを嘆き、ミレトスの神託を乞います。すると、すぐに娘を岩の上に置き去りにしないと、災難にあうだろう、そしてプシュケは怪物の餌食になるだろう、というお告げが下ります。

岩の上に取り残されたプシュケが震えていると、西のそよ風の神、ゼフュロスの来訪を告げる、心地よい風が吹き、ゼフュロスはプシュケを、宝石が散りばめられた大理石の宮殿まで送り届けます。以来そこが、プシュケの住家(すみか)となるのです。

毎晩、謎の訪問者が、美しいプシュケの部屋に忍び込み、二人は結ばれましたが、彼は、絶対に自分の顔を見てはならないと、戒めました。

ある晩、プシュケついに好奇心に負け、ランプで彼を照らしてしまいます。すると現れたのは、愛の神、アモルではありませんか。ランプ油が一滴落ちてしまい、その熱さで飛び起きたアモルは、プシュケが約束を破ったことに失望し、その場を去って行きます。

悲嘆に暮れたプシュケは、失った恋人を捜しに出ます。ヴィーナスはそこで、プシュケに一連の過酷な試練を科し、冥界からオリュンポスまで駆け巡ることになったのです。いよいよ最後の試練となった時、ヴィーナスは、プシュケを、冥界の女神、プロセルピナの元に遣り、決して開けてはならない、ある小瓶を取ってくるように命じます。好奇心に勝てずに、小瓶を開けてしまったプシュケは、瓶から立ち上がったおぞましい蒸気を吸い込み、致命的な眠りに陥ってしまいますが、アモルが矢で触れると、プシュケは蘇ります。こうした二人の不屈な愛を目の当たりにした神々は、ついに二人の結婚に合意し、プシュケにアンブロシアを飲ませて、永遠の命を与え、かくしてプシュケは、魂の女神として認められたのでした。

古代から、プシュケが蝶の羽をつけた姿で表わされるのは、ギリシア語でプシュケが、魂と蝶というの二つの意味を持っているからです。こうして蝶は、「永遠の魂」を象徴するシンボルとなったのです。このプシュケの物語は、幸福や永遠の命を得るには、魂は多くの試練を乗り越えなければならない、ということを象徴しています。
ピエール・ペニコー作(推定)<br/>皿:『プシュケを崇拝する民衆<br/>銅に彩色されたエマイユ<br/>R 309<br/>パリ、ルーヴル美術館
ピエール・ペニコー作(推定)
皿:『プシュケを崇拝する民衆
銅に彩色されたエマイユ
R 309
パリ、ルーヴル美術館

© 2008 Musée du Louvre / Martine Beck-Coppola
アントワーヌ=ドニ・ショデ<br/>(1763年 -1810年)<br/>《アモル》<br/>大理石<br/>LL 56<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントワーヌ=ドニ・ショデ
(1763年 -1810年)
《アモル》
大理石
LL 56
パリ、ルーヴル美術館

© 1994 Musée du Louvre / Pierre Philibert
プシュケ物語の壁掛け:<br/>アポロンの神託を受けるプシュケの両親<br/>紙に彩色、パノラマ画<br/>inv. BAD 5295 (HH 2.01)<br/>パリ、装飾美術館
プシュケ物語の壁掛け:
アポロンの神託を受けるプシュケの両親
紙に彩色、パノラマ画
inv. BAD 5295 (HH 2.01)
パリ、装飾美術館

© Photo Les Arts Décoratifs, Paris / Laurent Sully Jaulmes
アンリー=ジョゼフ・リュットクスィル<br/>(1775年-1837年)<br/>《プシュケを連れ去るゼフュロス》<br/>大理石<br/>LL 0007<br/>パリ、ルーヴル美術館
アンリー=ジョゼフ・リュットクスィル
(1775年-1837年)
《プシュケを連れ去るゼフュロス》
大理石
LL 0007
パリ、ルーヴル美術館

© RMN / Jean Schormans
アンリー=ジョゼフ・リュットクスィル<br/>(1775年-1837年)<br/>《プシュケを連れ去るゼフュロス》<br/>大理石<br/>LL 0007<br/>パリ、ルーヴル美術館
アンリー=ジョゼフ・リュットクスィル
(1775年-1837年)
《プシュケを連れ去るゼフュロス》
大理石
LL 0007
パリ、ルーヴル美術館

© RMN / Jean Schormans
フランソワ・ジェラール<br/>(ローマ、1770年-パリ、1837年)<br/>《プシュケとアモル》(1798年)<br/>画布に油彩<br/>縦1.86m、横1.32m<br/>INV.4739<br/>パリ、ルーヴル美術館
フランソワ・ジェラール
(ローマ、1770年-パリ、1837年)
《プシュケとアモル》(1798年)
画布に油彩
縦1.86m、横1.32m
INV.4739
パリ、ルーヴル美術館

© RMN / Gérard Blot
フランソワ=ニコラ・ドゥレストル<br/>(1746年-1836年)<br/>《アモルとプシュケ》<br/>大理石<br/>N15515<br/>パリ、ルーヴル美術館
フランソワ=ニコラ・ドゥレストル
(1746年-1836年)
《アモルとプシュケ》
大理石
N15515
パリ、ルーヴル美術館

© 2004 / Musée du Louvre / Pierre Philibert
フランソワ=ドミニク=エメ・ミロム<br/>(1758年-1823年)<br/>《プシュケ》<br/>大理石<br/>MR 2059, C341C<br/>コンピエーニュ、コンピエーニュ城
フランソワ=ドミニク=エメ・ミロム
(1758年-1823年)
《プシュケ》
大理石
MR 2059, C341C
コンピエーニュ、コンピエーニュ城

© RMN / Franck Raux
ベルテル・トルヴァルセン<br/>(1770年-1844年)<br/>《ヴィーナスのために香油壺を持つプシュケ》<br/>大理石<br/>A821<br/>コペンハーゲン、トルヴァルセン美術館
ベルテル・トルヴァルセン
(1770年-1844年)
《ヴィーナスのために香油壺を持つプシュケ》
大理石
A821
コペンハーゲン、トルヴァルセン美術館

© Thorvaldsens museum / Pernille Klemp / Ole Woldbye
ベルテル・トルヴァルセン<br/>(1770年-1844年)<br/>《プシュケを矢で突付くアモル》<br/>大理石<br/>A430<br/>コペンハーゲン、トルヴァルセン美術館
ベルテル・トルヴァルセン
(1770年-1844年)
《プシュケを矢で突付くアモル》
大理石
A430
コペンハーゲン、トルヴァルセン美術館

© Thorvaldsens museum / Pernille Klemp / Ole Woldbye
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルとプシュケの立姿》<br/>大理石<br/>MR 1776<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルとプシュケの立姿》
大理石
MR 1776
パリ、ルーヴル美術館

© 2004 / Musée du Louvre / Pierre Philibert
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルとプシュケの立姿》<br/>大理石<br/>MR 1776<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルとプシュケの立姿》
大理石
MR 1776
パリ、ルーヴル美術館

© 2004 / Musée du Louvre / Pierre Philibert
《アモルとプシュケ》<br/>大理石<br/>“0106693”<br/>フィレンツェ、ウフィツィ美術館
《アモルとプシュケ》
大理石
“0106693”
フィレンツェ、ウフィツィ美術館

© 2010. Photo Scala, Florence - courtesy of the Ministero Beni e Att. Culturali
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>側面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
側面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
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巧妙な構成

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カノーヴァはこのきわめて巧妙な構成にいたるまでに、数多くの研究を重ねていたようで、ヘルクラネウムで発見された、古代ローマの絵に見られる構成です。実際、カノーヴァは1787年にナポリに滞在した際にヘルクラネウムを訪れています。しゃがんだ男性の姿勢といい、横たわる女性のポーズや腕の仕草まで正確に模写しています。そして、粘土で多くの人物像を創るうちに、抱きあう人体の構造が、徐々に、練り上げられていったのです。恋人たちが描かれた一連の下絵、素描、塑像からは、「抱擁」の図が見られますが、「抵抗」、つまり熱い油が一滴落ちて、アモルがプシュケの腕から、突然身を引く場面を彷彿させるようなものもあります。

カノーヴァは、円を描くような、両腕の動きを研究し、数々の習作を残しています。これは、《アドニスに、冠をのせるヴィーナス》と呼ばれる、大きな石膏原型ですが、ここに見られる、腕の動きや視線のやり取りは、既に《アモルとプシュケ》のそれを思わせます。どの粘土の塑像も、岩の上で二人が抱き合う構造になっていますが、最終作品では、アモルの片脚を曲げ、翼を立たせ、またプシュケの上半身を持ち上げることで、新たな上昇効果を作品に与えています。

プシュケとアモルの脚の位置によって、ピラミッド形構造の境界が画定(かくてい)され、作品を、岩の上にしっかりと安定させています。カノーヴァは、安定感と同時に、複雑で力強い回転を生み出しています。全体を旋回させ、アモルの右足から、プシュケを抱え上げる、絡み合う腕につながる線に動きを与え、蘇るプシュケの命を表現しているのです。

垂直に付けられた翼によって、上昇する動きがさらに強調されます。アダモ・タドリーニによって修正が加えられた石膏型はカノーヴァの型よりも、翼が小さく、水平に取り付けられているので、上昇する螺旋効果が減少しています。一方、感情や官能が溢れる様子は、接近した二人の顔が強調しています。接吻の瞬間、感情が激しく湧き起こる直前に、時が止まったかのようです。
ラファエル・モルゲン<br/>(1758年-1833年)<br/>エルコラーノの古代絵画をもとにした《牧神とバッカント》<br/>『エルコラーノの古代絵画』をもとにした版画、ナポリ、1757年voll, pl.XV<br/>パリ、フランス国立図書館
ラファエル・モルゲン
(1758年-1833年)
エルコラーノの古代絵画をもとにした《牧神とバッカント》
『エルコラーノの古代絵画』をもとにした版画、ナポリ、1757年voll, pl.XV
パリ、フランス国立図書館

© BnF
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《サテュロスとバッカンテ(バッカスの巫女)》<br/>黒鉛<br/>バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《サテュロスとバッカンテ(バッカスの巫女)》
黒鉛
バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館

© Museum, Library and Archive of Bassano del Grappa, Italy
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アドニスの死》<br/>テラコッタ<br/>Inv 93<br/>ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アドニスの死》
テラコッタ
Inv 93
ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館

© Museo Gipsoteca Antonio Canova, Possagno, Treviso (Italy)
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アドニスの死を嘆くヴィーナス》<br/>エスキス(下絵)、テラコッタ<br/>Inv 22<br/>ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アドニスの死を嘆くヴィーナス》
エスキス(下絵)、テラコッタ
Inv 22
ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館

© Museo Gipsoteca Antonio Canova, Possagno, Treviso (Italy)
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《ヒュラースとニンフの抱擁?》<br/>紙にサンギーヌ<br/>Eb105.1116<br/>バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《ヒュラースとニンフの抱擁?》
紙にサンギーヌ
Eb105.1116
バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館

© Museum, Library and Archive of Bassano del Grappa, Italy
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇ったプシュケの闘い》<br/>エスキス、テラコッタ<br/>inv 342<br/>ヴェネツィア、コッレール美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇ったプシュケの闘い》
エスキス、テラコッタ
inv 342
ヴェネツィア、コッレール美術館

© Fondazione Musei Civici Venezia
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>黒鉛<br/>Eb29.1040 表<br/>バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
黒鉛
Eb29.1040 表
バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館

© Museum, Library and Archive of Bassano del Grappa, Italy
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)<br/>《アガメムノンの習作の下部にある詳細:アドニスに冠を載せるヴィーナス?あるいはケンタウロス?》<br/>紙に黒チョーク<br/>Eb 29,1040 裏<br/>バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)
《アガメムノンの習作の下部にある詳細:アドニスに冠を載せるヴィーナス?あるいはケンタウロス?》
紙に黒チョーク
Eb 29,1040 裏
バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館

© Museum, Library and Archive of Bassano del Grappa, Italy
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アドニスに冠を載せるヴィーナス》<br/>石膏原型<br/>ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アドニスに冠を載せるヴィーナス》
石膏原型
ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館

© Museo Gipsoteca Antonio Canova, Possagno, Treviso (Italy)
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《接吻で蘇ったプシュケの闘い》<br/>エスキス(下絵)、テラコッタ<br/>Inv11<br/>ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《接吻で蘇ったプシュケの闘い》
エスキス(下絵)、テラコッタ
Inv11
ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館

© Museo Gipsoteca Antonio Canova, Possagno, Treviso (Italy)
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>後面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
後面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>石膏原型<br/>05.46<br/>ニューヨーク、メトロポリタン美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
石膏原型
05.46
ニューヨーク、メトロポリタン美術館

© The MET, Dist. RMN / image of the MMA
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
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大理石に命を吹き込む

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カノーヴァの彫刻がまるで生きているような印象を与えるのは、大理石の表面の処理がきわめて繊細で、変化に富んでいるからです。ここに見られるように、岩の表面に故意に残された、石彫用の鑿(のみ)の歯形の跡や、地面にひかれた絨毯のひだと、プシュケの腰の薄いモスリンの表面には違いがあります。なめらかな肌は、使用するやすりを段々きめの細かいものにしていくこと得られ、その跡が、アモルの顔に残っているのが、よく見えます。カノーヴァは、どんな難しい部分にも達することができる、先端が湾曲した道具を作らせていました。

壺は別個に作られ、その独特なつやは、壺を回転させながら粉で研磨し、次に艶出しを施して得られたものと思われます。貴金属のような素材感を出すために、おそらく蝋が塗られているのでしょう。同じく別個に彫られた、アモルの翼には、細かい彫りが施され、背中に、ぴったりと挿入されています。細かい綿毛の線は、背中と翼の繋ぎ目を隠す役目を果しています。アモルの翼は、きわめて厚く、信じがたいほどの物質性があるにもかかわらず、日が当ると、逆光で半透明になり、見事な金色の色調を帯びます。

この作品のどこをとっても、大理石の彫刻家、カノーヴァの傑出した才能が、表れています。
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
歯形の刃が付いた石彫用の鑿(のみ)
歯形の刃が付いた石彫用の鑿(のみ)

© Inventaire Général des Monuments et des Richesses artistiques de la France. La Sculpture. Méthode et Vocabulaire. Secrétariat Général / Bernard Emmanuelli / Atelier R.Delamarre. P 196.
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2004 / Musée du Louvre / Pierre Philibert
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>後面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
後面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>後面(詳細)<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
後面(詳細)
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>側面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
側面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
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頻繁に複製され、模倣された作品

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この作品は、一部の評論家から、あまりにも「バロック」的で、凝り過ぎ、複雑すぎる、批判されましたが、それにもかかわらず、瞬く間に人気を博しました。この作品は異なった角度から鑑賞できるように考案されています。可動式の台座が取り付けられ、右にある取っ手で、作品を回転させることができます。

美術愛好家たちはこぞって作品の原型のレプリカを発注し、カノーヴァに修正を求めることもありました。例えばユスポフ公爵は、より貞淑なプシュケを希望したため、モスリンの布で脚を完全に覆わせました。その作品は、現在、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館にあります。その後、カノーヴァの一番弟子で、後継者であったアダモ・タドリーニが、この石膏原型を譲り受け、それに少し修正を加えました。

したがって、その後、原型を基にレプリカを制作したのはタドリーニ*で、少なくとも5点制作したことが分かっています。カルロッタ邸にある作品はその一つです。この二つ目の原型から、当時の模作や縮小模作が派生し、抱擁する恋人たちの像はいたる所で複製され、嗅ぎ煙草入れに載せるものさえ現れました。タドリーニ*が普及させたこのモデルでは、プシュケは小さな蝶の羽をつけており、アモルの方は、カノーヴァの原型に比べて、翼が小さく、より水平な位置に取り付けられています・・・

ローマで、カノーヴァの工房を知らない芸術家はいませんでした。その多くは、同じテーマを扱って、作品を制作しています。例えば、彫刻家ジョン・ディアーは、この下絵を基に高浮彫りを彫っています。一方ジャン=ピエール・サントゥルスはアモルに運ばれるプシュケの場面を選びました。

長い間カノーヴァの作品とされていたこの絵の作者、ガスパーレ・ランディは、むしろ古典的な風景の中に、人物を配置しています。フランス人画家ベニーニュ・ガニュロは、ピラミッドの構図を保ちながらも、プシュケがまだ生きているかどうか、アモルが確かめている場面を描きました。

19世紀になっても、この群像の人気は依然として高く、オーギュスト・ロダンは抱擁の場面を素描し、これをもとにフェリックス・ブラックモンは1886年に版画を制作しました。ロダンはもう一つの《アモルとプシュケ》を彫り、後に《永遠の青春》と題名を変えていますが、カノーヴァの作品が醸し出す、あの無垢な穏やかさを、想起せずにはいられません。

20世紀になっても、カノーヴァが生み出したうっとりさせるような、めくるめく抱擁の像は、忘れられることはありませんでした。この、スコットランド人画家、カラム・コルヴィンの作品では、構図が上半身と顔に絞られています。後には、写真の分野にも影響を与えていますが、アレハンドラ ・フィゲロアの作品はその一例で、一部分を抜き出して、プシュケの肉体をまるで生きているかのようにリアルに表現しています。
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
ヒュー=ダグラス・ハミルトン<br/>(1736年-1808年)<br/>《カノーヴァ、工房にて》<br/>パステル<br/>E.406-1998<br/>ロンドン、ヴィクトリア &amp;アルバート博物館
ヒュー=ダグラス・ハミルトン
(1736年-1808年)
《カノーヴァ、工房にて》
パステル
E.406-1998
ロンドン、ヴィクトリア &アルバート博物館

© V & A Images/Victoria and Albert Museum, London
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)<br/>《アモルとプシュケ》
<br>大理石<br>サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)
《アモルとプシュケ》
大理石
サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館

© The State Hermitage Museum, St. Petersburg
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>石膏原型<br/>05.46<br/>ニューヨーク、メトロポリタン美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
石膏原型
05.46
ニューヨーク、メトロポリタン美術館

© The MET, Dist. RMN / image of the MMA
アダモ・タドリーニ<br/>(1788-1868年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>大理石<br/>トレメッツォ、カルロッタ邸
アダモ・タドリーニ
(1788-1868年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
大理石
トレメッツォ、カルロッタ邸

© Fototeca Villa Carlotta
アモルとプシュケの煙草入れ<br/>金、エマイユ、ガラス、蝋、1799年<br/>サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館
アモルとプシュケの煙草入れ
金、エマイユ、ガラス、蝋、1799年
サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館

© The State Hermitage Museum, St. Petersburg
ジョン・ディアー<br/>(1759年-1798年)<br/>《アモルに接吻するプシュケ》<br/>素描<br>個人蔵
ジョン・ディアー
(1759年-1798年)
《アモルに接吻するプシュケ》
素描
個人蔵

© The Sculpture Journal, Volume IV 2000. Cupid and Psyche, 1787. Private collection, p.115
ジャン=ピエール・サン=トゥルス<br/>(ジュネーヴ、1752年-1809年)<br/>《クピドとプシュケ》<br/>油彩、木材<br/>M.2000.179.30<br/>ロサンジェルス・カウンティー・ミュージアム
ジャン=ピエール・サン=トゥルス
(ジュネーヴ、1752年-1809年)
《クピドとプシュケ》
油彩、木材
M.2000.179.30
ロサンジェルス・カウンティー・ミュージアム

© 2010. Digital Image Museum. Associates/LACMA/Art Resource NY/Scala, Florence
ガスパーレ・ランディ(1756年-1830年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>画布に油彩<br/>ヴェネツィア、コレール美術館
ガスパーレ・ランディ(1756年-1830年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
画布に油彩
ヴェネツィア、コレール美術館

© Archives Alinari, Florence, Dist. RMN / Mauro Magliani
ベニーニュ・ガニュロbr/>(1756年-1795年)<br/>《アモルによって目覚めるプシュケ》<br/>画布に油彩<br/>ローマ、アルティエリ宮、イタリア銀行協会
ベニーニュ・ガニュロbr/>(1756年-1795年)
《アモルによって目覚めるプシュケ》
画布に油彩
ローマ、アルティエリ宮、イタリア銀行協会

© akg-images / Pirozzi
フェリックス・ブラックモン<br/>(1833-1914年)<br/>アリストファネス、純情な恋人たちの群像<br/>オーギュスト・ロダンの素描を元にした版画<br/>パリ、フランス国立図書館
フェリックス・ブラックモン
(1833-1914年)
アリストファネス、純情な恋人たちの群像
オーギュスト・ロダンの素描を元にした版画
パリ、フランス国立図書館

© BnF
オーギュスト・ロダン(1840年-1917年)<br/>《永遠なる青春》<br/>ブロンズ<br/>パリ、ロダン美術館
オーギュスト・ロダン(1840年-1917年)
《永遠なる青春》
ブロンズ
パリ、ロダン美術館

© Adam Rzepka / Musée Rodin, Paris
カルム・コルヴィン(1936年)<br/>アモルとプシュケ<br/>修正写真<br/>E43-33-2(317-000030)
カルム・コルヴィン(1936年)
アモルとプシュケ
修正写真
E43-33-2(317-000030)

© Calum Colvin
アレハンドラ・フィゲロア<br/>無題<br/>写真撮影<br/>シリーズ《息づく石たち》の写真、ルーヴル美術館の彫刻(カノーヴァ、プシュケ)
アレハンドラ・フィゲロア
無題
写真撮影
シリーズ《息づく石たち》の写真、ルーヴル美術館の彫刻(カノーヴァ、プシュケ)

© Alexandra Figueroa
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背景

名声に向けての第一歩

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カノーヴァは1757年、イタリア北東部の小さな町、ポッサーニョに生まれ、ヴェネツィアで素描、絵画、彫刻を学んでから、ローマに工房を構えます。この群像が発注された1787年には既に、多くの作品を完成させていました。フランチェスコ・キアロッティーニが描いたカノーヴァでは、左奥に、《ダイダロスとイカロス》の群像が見えます。1777年から1779年の間に、カノーヴァがまだヴェネツィアで働いていた時に制作されたもので、バロック様式の劇的な効果や、ヴェネツィア派の生彩あふれる作風の跡が残っています。1781年から1783年の《テセウスとミノタウロス》は、カノーヴァが発展させる荘厳な様式の最初の例で、《テセウスとミノタウロス》の人物表現における、正面性や安定性が、称賛を浴びますが、テセウスの上半身は、現在ヴァチカンにある、かの有名、ベルヴェデーレのトルソに着想を得たのではないかと推測されています。

カノーヴァがローマで教皇クレメンス14世の墓碑を制作したのは1787年。人物を純化し、空間における線や素描に重きを置いて、彫刻芸術の革新を図りました。こちらは《節制》の石膏原型で、《節制》は棺の上に身をかがめています。その上方に配置されることになる《祝福を与える教皇》の姿が、こちら右側にあります。カノーヴァは、アモルとプシュケのテーマを、蝶と遊ぶ、幼い立ち姿で表わした作品も制作しました。この群像の構成は、古代時代に制作された、あるモデルとよく似ています。そのモデルでは、子供姿のアモルとプシュケが立ったまま抱き合っています。

ローマにあるサン・ピエトロ大聖堂の教皇クレメンス13世の墓碑のような、高貴な人からの注文が殺到したため、カノーヴァは工房を再編成しなければなりませんでした。タドリーニをはじめとする助手たちは、巨匠の指導のもとで、忙しく働き、工房はあたかも蜂が飛び交う巣のようでした。
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《自画像》<br/>画布に油彩<br/>“0091527”<br/>フィレンツェ、ウフィツィ美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《自画像》
画布に油彩
“0091527”
フィレンツェ、ウフィツィ美術館

© 2010. Photo Scala, Florence - courtesy of the Ministero Beni e Att. Culturali
フランチェスコ・キアロッティーニ<br/>(1748年-1796年)<br/>《ローマ、サン・ジャコモ通りにあるカノーヴァの工房》<br/>素描<br/>ウディネ、市立美術館
フランチェスコ・キアロッティーニ
(1748年-1796年)
《ローマ、サン・ジャコモ通りにあるカノーヴァの工房》
素描
ウディネ、市立美術館

© Civici Musei di Udine
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《ダイダロスとイカロス》<br/>ヴェネツィア、コレール美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《ダイダロスとイカロス》
ヴェネツィア、コレール美術館

© Fondazione Musei Civici Venezia
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《テセウスとミノタウロス》<br/>大理石<br/>A5.1962<br/>ロンドン、ヴィクトリア &アルバート博物館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《テセウスとミノタウロス》
大理石
A5.1962
ロンドン、ヴィクトリア &アルバート博物館

© V&A Images/Victoria and Albert Museum, London
ジョヴァンニ・ヴォルパート(1735年-1803年)と<br/>ラファエロ・モルゲン(1758年-1833年)<br/>《ヴァティカンのアポロン》、通称《ベルヴェデーレのアポロン》<br/>カノーヴァがペンおよびサンギーヌで注釈を書き込んだ版画<br/>バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館
ジョヴァンニ・ヴォルパート(1735年-1803年)と
ラファエロ・モルゲン(1758年-1833年)
《ヴァティカンのアポロン》、通称《ベルヴェデーレのアポロン》
カノーヴァがペンおよびサンギーヌで注釈を書き込んだ版画
バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館

© Museum, Library and Archive of Bassano del Grappa, Italy
《ベルヴェデーレのトルソ》<br/>Inv.1192<br/>ローマ、ピオ・クレメンティーノ美術館
《ベルヴェデーレのトルソ》
Inv.1192
ローマ、ピオ・クレメンティーノ美術館

© akg-images
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《教皇クレメンス14世の墓碑》<br/>大理石 <br/>ローマ、サンティ・アポストリ教会
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《教皇クレメンス14世の墓碑》
大理石 
ローマ、サンティ・アポストリ教会

© Giovanni Rinaldi
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルとプシュケの立姿》<br/>大理石<br/>MR 1776<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルとプシュケの立姿》
大理石
MR 1776
パリ、ルーヴル美術館

© 2004 / Musée du Louvre / Pierre Philibert
《アモルとプシュケ》<br/>大理石<br/>“0106693”<br/>フィレンツェ、ウフィツィ美術館
《アモルとプシュケ》
大理石
“0106693”
フィレンツェ、ウフィツィ美術館

© 2010. Photo Scala, Florence - courtesy of the Ministero Beni e Att. Culturali
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年1822年)<br/>《教皇クレメンス13世の墓碑》<br/>大理石<br/>ローマ、サン・ピエトロ大聖堂
アントニオ・カノーヴァ
(1757年1822年)
《教皇クレメンス13世の墓碑》
大理石
ローマ、サン・ピエトロ大聖堂

© 2010, Photo Scala, Florence
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粘土から大理石まで

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カノーヴァは、様々な素描や、小型の塑像を作り、その中から最終的な構図を選びました。そして木の骨組みの周りに粘土をつけて、完成作品と全く同じ寸法の粘土原型を作ります。当時の彫刻工房の習慣に反して、「仕上げ寸法」、すなわち完成作品と同じ寸法の、原型用いて制作していました。

出来上がった粘土原型は、砕けないように常に濡れた布で覆っておき、これをもとに、すかさず石膏で型取りを行います。通常は、型から取り出す時に、粘土原型は破壊されます。こうして最終的な寸法の石膏が得られます。カノーヴァが開発したこの「仕上げ寸法」法を用いると、原型と完成作品の寸法が全く同じなので、制作が容易になり、縮小された原型を用いた場合にともなう難しい拡大作業が避けられます。そのため、大理石に写し取る大部分の作業を下彫り彫刻家に任せることができたのです。大理石の下彫り彫刻家は、次に、正確な寸法を計測し、石膏とこれから彫る彫刻の上に置く、目盛を打った枠組みを2個と、下げ振りや大きなコンパスを使って、寸法を大理石のブロックに精密に写し取ります。

これは、フランチェスコ・キアロッティーニが描いた、カノーヴァの工房の素描です。奥に、棺に寄りかかる《節制》の石膏が、また前方には、支柱に支えられた大理石のオリジナルが見えます。目盛を打った枠組みがついた状態で、右には、祝福を与える教皇の石膏原型が、また前方には、片手が欠けた状態の大理石のオリジナルが見えます。別個に彫られた手が、椅子の上に置かれていますが、これから、袖の中に取り付けられるところなのでしょう。石膏原型を作るために用いられた粘土原型には、複雑な骨組みがたくさん埋め込まれていたにちがいありません。この石膏原型は、タドリーニが作った数々の模作に用いたもので、その上に、多くの釘が、曲線の頂点に打たれていることが分かります。また、釘と釘の間に、小さな十文字が点在していますが、これらは、コンパスで正確な寸法を得るためにつけられているのです。

工房の仕事には、共同作業的な特徴がありますが、カノーヴァは、素描、原型の構成、大理石を彫る大方の作業、仕上げ、素材の質感を選定までを遂行していました。カノーヴァが制作した傑作では、大理石から、生命が息づき、その温もりが溢れでています。
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)<br/>《アガメムノンの習作の下部にある詳細:アドニスに冠を載せるヴィーナス?あるいはケンタウロス?》<br/>紙に黒チョーク<br/>Eb29,1040裏<br/>バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)
《アガメムノンの習作の下部にある詳細:アドニスに冠を載せるヴィーナス?あるいはケンタウロス?》
紙に黒チョーク
Eb29,1040裏
バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館

© Museum, Library and Archive of Bassano del Grappa, Italy
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《ヒュラースとニンフの抱擁?》<br/>紙にサンギーヌ<br/>Eb105.1116<br/>バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《ヒュラースとニンフの抱擁?》
紙にサンギーヌ
Eb105.1116
バッサーノ・デル・グラッパ、市立博物館

© Museum, Library and Archive of Bassano del Grappa, Italy
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アドニスの死を嘆くヴィーナス》<br/>エスキス(下絵)、テラコッタ<br/>Inv 22<br/>ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アドニスの死を嘆くヴィーナス》
エスキス(下絵)、テラコッタ
Inv 22
ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館

© Museo Gipsoteca Antonio Canova, Possagno, Treviso (Italy)
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《接吻で蘇ったプシュケの闘い》<br/>エスキス(下絵)、テラコッタ<br/>Inv11<br/>ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《接吻で蘇ったプシュケの闘い》
エスキス(下絵)、テラコッタ
Inv11
ポッサーニョ、カノーヴァ石膏塑像館

© Museo Gipsoteca Antonio Canova, Possagno, Treviso (Italy)
カノーヴァによるペルセウスの石膏原型に用いられた、木の骨組みの図
カノーヴァによるペルセウスの石膏原型に用いられた、木の骨組みの図

© DR
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)<br/>《メドゥーサの頭を持つペルセウス》<br/>1804-06年<br/>大理石<br/>高さ2.34m<br/>Inv. 67.110.1<br/>ニューヨーク、メトロポリタン美術館
アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)
《メドゥーサの頭を持つペルセウス》
1804-06年
大理石
高さ2.34m
Inv. 67.110.1
ニューヨーク、メトロポリタン美術館

© The MET, Dist. RMN / image of the MMA
石膏の型の製造<br/>フランチェスコ・カラドーリによる『彫刻科生のための基礎講座』の挿絵<br/>フィレンツェ、1802年、pl. VI
石膏の型の製造
フランチェスコ・カラドーリによる『彫刻科生のための基礎講座』の挿絵
フィレンツェ、1802年、pl. VI

© BnF
石膏原型から大理石に転写する方法<br/>フランチェスコ・カラドーリによる『彫刻科生のための基礎講座』の挿絵<br/>フィレンツェ、1802年、pl. VI
石膏原型から大理石に転写する方法
フランチェスコ・カラドーリによる『彫刻科生のための基礎講座』の挿絵
フィレンツェ、1802年、pl. VI

© BnF
フランチェスコ・キアロッティーニ<br/>(1748年-1796年)<br/>《ローマ、サン・ジャコモ通りにあるカノーヴァの工房》<br/>素描<br/>ウディネ、市立美術館
フランチェスコ・キアロッティーニ
(1748年-1796年)
《ローマ、サン・ジャコモ通りにあるカノーヴァの工房》
素描
ウディネ、市立美術館

© Civici Musei di Udine
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>石膏原型<br/>05.46<br/>ニューヨーク、メトロポリタン美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
石膏原型
05.46
ニューヨーク、メトロポリタン美術館

© The MET, Dist. RMN / image of the MMA
アントニオ・カノーヴァ<br/>(1757年-1822年)<br/>《アモルの接吻で蘇るプシュケ》<br/>正面<br/>大理石<br/>高さ1.55m、<br/>幅1.68m、<br/>奥行き1.01m<br/>MR 1777<br/>パリ、ルーヴル美術館
アントニオ・カノーヴァ
(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
正面
大理石
高さ1.55m、
幅1.68m、
奥行き1.01m
MR 1777
パリ、ルーヴル美術館

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault
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