サモトラケのニケ

ルーペで見る《サモトラケのニケ》

ルーペで見る《サモトラケのニケ》
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
© 2008 Musée du Louvre / Cécile Dégremont
 

分析

衣の襞

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このモニュメントは、勝利を告げる女神を表している翼のある女性像、船の舳先の形をした台座、そして、全体を乗せている低い土台から成り立っています。

モニュメント全体の高さは、5.57メートルに及びます。パロスの白大理石で制作された彫像は、翼も入れて、2.75メートルあります。台座の高さは、2.01メートル、土台は36センチです。台座と土台は、白大理石に灰色の縞の入った大理石で、ロードス島のラルトスの採石場から出たものです。 こちらの大理石の方が色が濃いので、彫像の大理石の白と対照的でしたが、変色のために、かつてはもっとはっきりしていた色の違いが薄れてしまいました。

勝利の女神像は、キトンという足元まで落ちる薄い布のドレスを身にまとっています。 折返しで見えませんが、帯でドレスの布を持ち上げて、短くしています。その折返しが腰まで落ちていて、それを、もうひとつの帯を用いて乳房の下で締めています。この滑らかな衣の表現は、まさに巧みの技です。腹の上や、左の腿(もも)で、引っぱられた布が、肌に貼り付き、葉脈のような襞(ひだ)が、波打っています。脇腹では、細かい襞の流れが寄り集まっています。左足の前には、表面に刻み目が入って、薄い布に特有の波打つ効果を出しています。この襞の扱いは、ドレスの一部を隠している「ヒマティオン」と呼ばれるマントの厚い布の深くえぐられた襞と対照的です。この2つ目の布の襞が、研究しつくされて配置されているのは、明らかです。この布の折返しによって、表が出たり、裏が出たりして、それぞれ違った肌合いが巧みに表現されています。腰の位置で太く巻き付いたマントは、左側でほどけていき、量感のある流れとなって両足の間に落ちています。そこで、布は、積み重なり、深いひだを掘り、地上まで滑り落ちます。そして、左の腰と足全体をあらわに見せています。

右側では、まだ、腰の位置にあって、ふくらはぎの中程までを被って(おおって)います。後方では、もう片方の先端が開いて、左の腿の後ろではためいています。ここで観客が目にしているのは、布の裏地です。マントを押さえるものはもう何もありません。ただ「風の力」だけで、体に貼付いているのです。
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369

© Photo RMN / Gérard Blot / Hervé Lewandowski
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369

© Erich Lessing
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369

© Erich Lessing
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369

© Erich Lessing
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369

© Erich Lessing
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姿勢

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彫像を前にして、右斜め45度の位置に立った時に、この彫刻の最大の効果をご覧頂けます。彫刻の構成ラインを明確に見せてくれるのです。一つのラインは、大きい垂直線で、右足に沿って、胸の高さまで上がっています。もう一つは、斜めの線で、左足から、腿へ上がり、胸に至ります。こうして、勝利の女神像は、その肉体の花開いた形状と、衣の襞のまとまりと、動きのエネルギーとを同時に支える直角三角形におさまっています。

大きく開いた左の翼の位置が、水平線より少し上にあることで、彫刻は非常にダイナミックに表現されています。

正面からの視線は、衣の襞がくっきりと見せている右足のライン上にあり、左足は、ほぼ完全にマントに隠れています。腰と胸が同一面上に位置し、正面を向いて、胴体には、一切ひねりがありません。右の肩と乳房が上がっていますが、それは、右腕が上がっているしるしです。彫像の右側を見ると、体は細く、くねっています。仕上げが非常に簡略化されているので、彫刻家は、観客の目にほとんど触れない面に、これ以上手を入れることは無駄だと判断したのでしょう。同じ理由で、この彫像の背中も、ほとんど手をかけた跡がありません 。

出土した断片の中には、復元の際に彫像につなげることのできないものがありました。しかし、その中にもこの彫像の姿勢を復元する段階で、大きな意味を持つものがあります。

現在ついている右の翼は、左の翼を逆にして型を取ったものです。本物の右の翼の断片が2つ残っており、分析すると、翼はもっと高く斜めに、外向きに立っていたと推測できます。右の二の腕のごく小さな断片からは、腕の構えを明確にできます。体から少し離して、肘を曲げ上にあげていました。トルコのミュリナ史跡で出土したテラコッタの勝利の女神の小さい像が、腕の動きがどのようなものであったかを教えてくれます。勝利の女神は、右手にトランペットや、冠、細い帯などを持っていただろう、と思われていました。ところが、1950年に、サモトラケ島(現在のサモトラキ島)でこの手が出土したのです。手の平を開いて、二本の指が伸びているので、右手には、何も持っていなかった、単に挨拶のしぐさをしていたということになります。

別々に彫刻されていた両足は、現存しませんが、足の位置は、足が付いていた場所の表面に残っていた跡から復元できます。 右足は、船の甲板に乗せられ、左足は、宙に浮いていました。勝利の女神は、歩いているのではなく、台座の表面にそっと舞い降りたところなのです。

今では、この彫像全体の様子をデッサンすることができます。おそらく前を向いていたと考えられる頭の位置と、下に降ろしていたであろう左腕だけは、今もなお、仮説の域を出ません。
1875年頃
石膏
ヴェルサイユ、ムラージュ美術館
背面から見た体のムラージュ(型取りした複製)
1875年頃
石膏
ヴェルサイユ、ムラージュ美術館

© P. Lebaube
前190年頃
ミュリナ
粘土
高さ25cm
アテネのフランス考古学学院からの寄付
パリ、ルーヴル美術館, Myr 171
ニケ(勝利の女神)の小像
前190年頃
ミュリナ
粘土
高さ25cm
アテネのフランス考古学学院からの寄付
パリ、ルーヴル美術館, Myr 171

© Photo RMN / Hervé Lewandowski
前190年頃
ミュリナ
粘土
高さ25cm
アテネのフランス考古学学院からの寄付
パリ、ルーヴル美術館, Myr 171
ニケ(勝利の女神)の小像
前190年頃
ミュリナ
粘土
高さ25cm
アテネのフランス考古学学院からの寄付
パリ、ルーヴル美術館, Myr 171

© Photo RMN / Hervé Lewandowski
1875-1880年
石膏
紛失
O. Benndorf とK. von Zumbusch
サモトラケのニケの再現
1875-1880年
石膏
紛失

© 複写・複製を禁じる
ブロンズ
ルーヴル美術館(所蔵場所不明)
A. Cordonnier (1848-1930年)
サモトラケのニケの再現
ブロンズ
ルーヴル美術館(所蔵場所不明)

© 複写・複製を禁じる
パロスの大理石
長さ28cm、幅17cm
パリ、ルーヴル美術館, Ma 2369 bis
右手
パロスの大理石
長さ28cm、幅17cm
パリ、ルーヴル美術館, Ma 2369 bis

© Musée du Louvre / Anne Chauvet
パロスの大理石
長さ28cm、幅17cm
パリ、ルーヴル美術館, Ma 2369 bis
右手
パロスの大理石
長さ28cm、幅17cm
パリ、ルーヴル美術館, Ma 2369 bis

© 2002 Musée du Louvre / Anne Chauvet
右足があった場所

© Musée du Louvre / Anne Chauvet
左足があった場所

© Musée du Louvre / Anne Chauvet
彫像の再現

© Valérie FORET(D.E.S.A. の建築家)のデッサン
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船形の台座

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ヘレニズム時代 は、アレクサンドロス大帝の継承者たちが統治するいろいろな王国が、エーゲ海の支配をめぐって争い、船での戦いが数多く起こっていました。したがって、戦艦は非常に重要なものでした。

サモトラケのニケの台座は、この当時の典型的な戦艦の舳先を表わしています。この時代には、造船術の革新が多くみられます。最も有名なのは、船の側面に張り出して付けられた木製の部分です。これは、船の櫂(オール)を入れる大きな箱で、それまでよりもっと長く、もっと力のあるオールを支える役目を担っています。しかも、数段に重ねられたオールを支えていました。この台座に表わされたオールを入れる箱は、特に保存状態がよく、外側の壁にある、舷窓(げんそう)という、オールを通す楕円形の開口部が、上下二段にずらして開けられているところまで、識別することができます。

しかし、ギリシアの戦艦の主要な武器は、なんといっても、船嘴です。これは、船体が水中に入る境い目の喫水線(きっすいせん)の位置にあって、舳先のさらに高い位置にある小船嘴を伴っています。サモトラケのニケの台座の船嘴は、すべて失われてしまいました。彫刻された石で、ちょうど、リビアのキュレネのアゴラにある船艦のモニュメントの台座にあるようなものでした。イスラエルの海岸沖で、発見されたブロンズの船嘴は、全長2.27m、重量465kgで、敵の船を脅かしたおそろしい破壊兵器の実態を伝えています。サモトラケのニケの船の舳先にあった船嘴の根元の装飾もまた、砕けてしまっていますが、当時の貨幣や、浮彫り彫刻をみると、その形を想像することができます。

最終的に、この勝利の女神像の台座全体は、こんな風だったと考えられます。まず、龍骨と、船嘴が、外部腰板の低い位置にあります。小船嘴は、外部腰板の高い位置の船首の上で、オールを入れる箱に、オールを通す舷窓、ふなべり、舳先の装飾、戦闘甲板という具合です。
前3-前2世紀
大理石
高さ37cm、長さ53cm
サモトラキ島、偉大な神々の神殿
戦艦:浮彫り
前3-前2世紀
大理石
高さ37cm、長さ53cm
サモトラキ島、偉大な神々の神殿

© 2004 Claude Rolley
前1世紀初頭
イタリア、パレストリーナ、Museo Barberiniano
ナイル川流域で制作されたモザイク(細部);戦艦
前1世紀初頭
イタリア、パレストリーナ、Museo Barberiniano

© Fotografia Soprintendenza per i Beni Archeologici del Lazio
前250-前240年頃?
リビア、 キュレネのアゴラ
戦艦のモニュメント
前250-前240年頃?
リビア、 キュレネのアゴラ

© A. Pasquier
前250-前240年頃?
リビア、 キュレネのアゴラ
戦艦のモニュメント
前250-前240年頃?
リビア、 キュレネのアゴラ

© A. Pasquier
前2世紀前半
イスラエルのアトリット沿岸で発見
ブロンズ
イスラエル、ハイファ、国立海洋博物館
船嘴
前2世紀前半
イスラエルのアトリット沿岸で発見
ブロンズ
イスラエル、ハイファ、国立海洋博物館

© Israel Antiquities Authority
前227年頃
銀
パリ、フランス国立図書館、メダル所蔵室
アンティゴノス・ドソンが描かれたコイン
前227年頃

パリ、フランス国立図書館、メダル所蔵室

© Bibliothèque nationale de France
前2世紀後半
大理石
トルコ、イズミル(スミルナ)、考古学博物館
墓碑
前2世紀後半
大理石
トルコ、イズミル(スミルナ)、考古学博物館

© 複写・複製を禁じる
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構造

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勝利の女神像は、別々に彫刻された複数の大理石の塊を寄せ合わせた構造になっています。 この技法は、体から突出した部分では、ギリシアのアルカイック期にすでに使われていましたが、ヘレニズム時代には、体そのものにまで使われるようになります。この彫刻の場合は、乳房から足までが大きな一つの塊で、その上に、胸から頭までの、もう少し小さな塊が組合わされています。二本の腕と、2つの翼、足と衣の布は、別々に彫刻して寄せ合わせています。現在の骨組みは、近代のものですが、二つの大きな大理石の板を彫刻した両翼の支えは、外部の支えが一切ない全く不安定な状態で、いかにしてバランスを取るかという、深刻な問題がありました。

これを解決するために、彫刻家は、両翼の付け根の部分に段を付けて、勝利の女神の体の後ろの部分の羽を装飾彫刻した一種のコンソール・テーブルのような台に、はめ込んで接合しています。さらに、この接合した面が、水平より少し傾いているので、翼の重みが体に落ちるようになっています。そのおかげで、接合用の金属製の合いクギ2本だけで、翼を背中に保持できるのです。これぞまさに離れわざ。通常ブロンズの彫刻だけができる、スケールの大きい不安定な片持ち梁を、大理石で実現可能にしたわけです。

同様に、重力の法則に逆らう試みが、23個の大理石の塊でできている台座にうかがえます。敷石を6枚並べた長方形の土台の上に、もとは、金属製の鎹(かすがい)で接合されていた17個の塊が、前方が少し上がった状態で、水平に三段配置されています。オールを入れる箱の基盤は、後方では、幅が2倍になっていて、甲板では、3倍になっています。上部の基盤の後方にある穴は、もともとは、なかったものです。この何もない空間には、もとは巨大な塊があり、そこに、彫像を嵌め込む穴があいていました。この塊は、サモトラキ島に残されましたが、2トンを越える重量があり、もともとあった場所に入れるとオールを入れる箱の不安定な突出部分を支えることができたのです。また、龍骨の前方の長い塊が、基礎に対して、後方の一部分にしか接していないことがわかります。これが、上部の基盤の重量を支えながらも、ずっと上がったままで平衡を保っています。どうしてこのようなことが可能だったのでしょうか。彫像を本来の嵌め込み口に入れてみると、その重心がぴったり、この短い後方の接地部に落ちることが確認されました。2.5トンから3トンある総重量がこの部分にかかるため、船首を宙に浮かせたままでいることができるのです。

こうした複雑な仕組みは、石の龍骨に、自然な形と木製の本物の船がもつダイナミックな様子を与えるために施されたのです。彫像の位置を変えたら、バランスが崩れて、台座の前の部分がすっかり倒れてしまいます。つまり、彫像は、このモニュメントの物理的な安定に重要な役割を果たしているのです。

彫像の姿勢がよくわかりました。船の形が補足されて、船に対する彫像の位置がはっきり決まりました。ここで、このモニュメントの全体像を描くことができます。彫像と台座は、切り離して考えることはできません。これは、ひとりの天才的な芸術家、見事な腕を持った彫刻家が構想した一体の彫刻作品なのです。
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369

© Photo RMN / Gérard Blot / Hervé Lewandowski
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369

© 2008 Musée du Louvre / Cécile Dégremont
台座を構成するブロック

© Valérie FORET(D.E.S.A. の建築家)のデッサン
後部横断面

© Valérie FORET(D.E.S.A. の建築家)のデッサン
台座後部

© Musée du Louvre / A. Chauvet
ラルトスの大理石
長さ165cm、幅71cm、高さ61cm
サモトラキ島、偉大な神々の神殿
上段のブロック
ラルトスの大理石
長さ165cm、幅71cm、高さ61cm
サモトラキ島、偉大な神々の神殿

© New York University / B. Wescoat
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369
《サモトラケのニケ》
前220-前185年頃
サモトラキ島
パロスの大理石(彫像)、ロードス島の灰色大理石(船と土台)
全体の高さ 5.57m
1863、1879、1891年 C・シャンポワゾ調査隊取得
パリ、ルーヴル美術館, MA 2369

© 2008 Musée du Louvre / Cécile Dégremont
台座上への女神像設置のデッサン

© Valérie FORET(D.E.S.A. の建築家)のデッサン
前3-前2世紀
大理石
高さ37cm、長さ53cm
サモトラキ島、偉大な神々の神殿
戦艦:浮彫り
前3-前2世紀
大理石
高さ37cm、長さ53cm
サモトラキ島、偉大な神々の神殿

© 2004 Claude Rolley
モニュメント全体の再現

© Valérie FORET(D.E.S.A. の建築家)のデッサン
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背景

発見と修復

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サモトラキ島は、ギリシアの北東部、東マケドニアのトラキアの沖合にあるエーゲ海に浮かぶ島です。この島は、海から突き出た高い山のような形をしています。島の北岸の山のふもとに、急流の流れ落ちる渓谷があり、そこに、カベイロイと呼ばれる偉大な神々に捧げられたとても古い神殿があります。

トルコのハドリアノポリス、現在のエディルネのフランス副領事代理であったシャルル・シャンポワゾは考古学愛好家でした。1863年3月、シャンポワゾは、パリの帝国美術館のために美しいものを求めて、この地の遺跡を調査していました。1863年4月15日、神殿の西側を見下ろすテラスの先端で発掘作業をしていた人夫たちが、大きな女性像のいろいろな部分を掘り出しました。頭部と腕を見つけようと調査は続けられますが、結局見つかりませんでした。しかし、衣や羽の小さな断片が数多く出土し、大切に収拾されました。これらの断片によって、シャンポワゾは、これが勝利の女神の像だと想像することができたのです。彼は、この彫像と断片をフランスに送ります。これらは、一年後の1864年5月11日にルーヴル美術館に到着しました。細心の修復作業の末、1866年に、体の主要部の塊だけが展示されました。

シャンポワゾは、この彫像があった同じ場所で、小さい建築物の残りと、灰色の大理石の巨大な塊の山を見つけていたのですが、これらの大理石の塊を昔の墓だと思い、そのまま現地に残してきてしまいました。1875年、オーストリアの考古学派遣隊の建築家が、サモトラキ島の神殿を発掘した時、これらの大理石の塊を調査し、デッサンをしました。そして、これらを正しく組み合わせると、彫像の台座の役割をしていた船の舳先の形になるという結論を出しました。建築家はその時、デメトリオス1世ポリオルケテスの治世下のギリシアの貨幣の表面に描かれている、船の舳先に立つ勝利の女神像と比べています。1879年にシャンポワゾは、この発見を知らされ、その舳先の塊と舳先の土台の敷石をパリに送らせます。ルーヴル美術館の中庭で初めて行われた組み立て作業の結果、これらの塊が、墓ではなく、船の一部であるという仮説に異論の余地はありませんでした。

このとき、古代美術の学芸員、フェリックス・ラヴェソン・モリアンが、オーストリア人の提案する見本に従って、このモニュメントの完全な復元を試みました。彫像に施した主な作業は、次のようなものです。大理石の胸部右側は、体に戻して接合しました。左側と帯は石膏で作り直し、左の翼は、複数の大理石の断片を組み合わせて復元し、後ろ側を金属の骨組みで補強して、立たせています。右の翼は、断片が二つしかないので、左の翼を型取りして反転させたものを付けました。頭部と両腕、両足だけは、復元されていません。彫像は、船の上に直接乗せられました。大理石の塊は、欠けた所を補充して、セメントで固めています。しかし、舳先の装飾と船嘴は、補充されていません。

1884年に、修復が終わりました。このモニュメントは、完成したばかりのダリュの階段の中心軸上に正面を向いて配置され、目を見張る効果をうみ出しています。1934年に大規模な改装が行われた際、この効果をさらに高めるために、新しい石の塊が、彫像と台座の間に一つ加えられましたが、これは、本来なかったものです。
前7-前1世紀のギリシアの地図

© Musée du Louvre 古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門資料課
サモトラキ島の地図

© Collection QUID
サモトラキ島

© Néguine Mathieux / Franck Kausch
サモトラキ島の風景

© Néguine Mathieux / Franck Kausch
シャルル・シャンポワゾ(1863年)

© Musée du Louvre 古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門資料課
パリ、ルーヴル美術館, Ma4958, Ma4959A, Ma4959B, Ma4966, Ma4967
シャルル・シャンポワゾにより女神像とともに集められた断片
パリ、ルーヴル美術館, Ma4958, Ma4959A, Ma4959B, Ma4966, Ma4967

© P. Lebaube
ルーヴル美術館における《サモトラケのニケ》の最初の展示(カリアティードの間、1866年)

© 複写・複製を禁じる
パリ、国立美術館アーカイブ
シャンポワゾがイメージした「墓」の再現
パリ、国立美術館アーカイブ

© Archives des musées nationaux
建築家A. Hauserによる下段ブロックのデッサン

© Humboldt-Universität zu Berlin, Winckelmann-Institut
建築家A. Hauserによるオールを入れる箱を構成するブロックのデッサン

© Humboldt-Universität zu Berlin, Winckelmann-Institut
前301-前292年
銀
パリ、フランス国立図書館、メダル所蔵室
デメトリオス・ポリオルケテスが描かれたコイン
前301-前292年

パリ、フランス国立図書館、メダル所蔵室

© Bibliothèque nationale de France
ルーヴル美術館の中庭での最初の復元作業(1879年)

© 個人蔵アーカイブ
石膏
紛失
O. BenndorfとK. von Zumbusch
《サモトラケのニケ》の再現
石膏
紛失

© 個人蔵アーカイブ
石膏で修復された部分

© Photo RMN / Guillaume Foretによる彩色
石膏で修復された部分

© Photo RMN / Guillaume Foretによる彩色
石膏で修復された部分

© Photo RMN / Guillaume Foretによる彩色
1884年以降に修復されたモニュメント

© Musée du Louvre 古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門資料課
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サモトラキ島の神殿

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サモトラキ島の神殿は、偉大な神々への崇拝や、秘教的な祭式をとり行う場所として作られた複数の建物が集まる古代の名所でした。たくさんの巡礼者が訪れましたが、その多くは、小アジアにあるギリシアの都市国家からくる人々でした。

マケドニア王たちの庇護のもと、拡張され美しく飾られた礼拝の建物は、紀元前4世紀には、聖地の中心にあるスペース全体を占めていました。そこで、神殿をさらに拡張するには、このスペースの東西にあったふたつの丘に手をいれなければなりませんでした。東側には、巨大な入口が作られました。平らにならした西の丘の上には、長い柱廊が建造され、その周りには、建物が建てられたり、裕福な巡礼者たちが奉納した彫像などが置かれました。神殿から最も離れた、最も高い場所である南の端の丘の斜面に、窪みを掘って勝利の女神像のモニュメントを置きました。

勝利の女神像は、小さな建物の中に安置されていました。この建物は、現存しませんが、基盤が残っていました。この部分は、最近修復された土止め壁によって保護されており、一部は、崩れ落ちた大きな岩で、ふさがっていました。三方が塞がったこの小さな建物は、柱廊の前に広がるテラスに向かって開いていました。女神像の表面の大理石の素晴らしい保存状態をみると、この建物に屋根がついていたことは間違いありません。基盤の配置から、勝利の女神像は、建物の奥の壁に対して、直角ではなく、少し斜めに配置されていました。したがって、柱廊の方から入って来る人は、彫像を斜め左から見ていたことになります。

勝利の女神像は、神殿に寄進された数多くの奉納物の一つです。サモトラキ島の偉大な神々は、苦境にある信者に助けをもたらすということで、有名でした。神々に祈れば、海の事故を避けられ、戦いでは勝利を得ることができるとされていました。

テッサリア地方にあるラリサの石碑は、テオイ・メガロイという偉大な神々に捧げられたもので、神々が馬に乗り天を翔る(かける)姿で表わされています。そばには、勝利の女神が、冠を掲げて飛んでいます。女神はこの石碑の下に妻とともに表わされている男性にその冠を掲げるのです。この男性は、神々に献上するために、石碑の制作を依頼しました。夫婦は、地上で、神々に献上するための宴(うたげ)を準備しています。

このように、戦艦の舳先に置かれた勝利の女神像を表わした奉納品は、この土地にぴったり合っているようです。海戦に勝利した後、神々への感謝として捧げられたのでしょう。残念ながら、献辞の銘文が出土していないので、この記念碑の建造にまつわる状況、寄進者の名前がわかりません。彫刻家の名前も、その銘文に明記されていたかもしれません。
偉大な神々の神殿(空撮)

© 複写・複製を禁じる
女神像のあった場所から見たヒエロン(神殿におけるもっとも神聖な場所)

© Marsyas
神殿の全体図

© New York University / J. Kurtisch
女神像のあった建物の廃墟

® 1992, California State University Northridge, Pr John Paul Adams
前2世紀
ラリサ
大理石
高さ63.5cm
HeuzeyとDaumetの調査隊
パリ、ルーヴル美術館, MA 746
偉大な神々に捧げた石碑
前2世紀
ラリサ
大理石
高さ63.5cm
HeuzeyとDaumetの調査隊
パリ、ルーヴル美術館, MA 746

© Musée du Louvre / P. Lebaube
前2世紀
ラリサ
大理石
高さ63.5cm
HeuzeyとDaumetの調査隊
パリ、ルーヴル美術館, MA 746
偉大な神々に捧げた石碑
前2世紀
ラリサ
大理石
高さ63.5cm
HeuzeyとDaumetの調査隊
パリ、ルーヴル美術館, MA 746

© Musée du Louvre / P. Lebaube
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工房と制作年

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サモトラケのニケ像に匹敵するほどの彫像は、ヘレニズム時代のギリシア世界のいかなる地方からも、出土していません。ただ、パルテノン神殿のペジメントに表わされた女神たちの衣の襞の効果は、比較の対象になります。まるで、この彫刻家が、紀元前5世紀のアテネの彫刻家の巨匠たちと、2世紀半の後に、腕比べをしようとしたかのようです。

ひとつはっきりしていることがあります。幾つかの部分を別々に彫刻した後、寄せ合わせるという、彫像の胴体部分で使われている手法は、小アジアと、ドデカネス諸島と、キクラデス諸島の工房で、特に使われていた技法だということです。

サモトラケのニケの台座は、ロードス島で制作されたと考えられます。ロードス島には、ラルトスの大理石を使った台座の制作を専門とする工房がありました。そこで、このモニュメント全体は、ロードス島の人による、サモトラキ島への奉納品として、ロードス島で制作されたのだという結論が出されました。しかし、彫像本体もこの島で制作されたという根拠は、実際のところ何もありません。なぜなら、これほどの技巧を駆使した衣の襞の彫刻で求められる力量は、台座工房の能力を確実に越えているからです。それに、出土したロードス島の大理石像は、数が多くいろいろな種類があるものの、通常は小型で、この勝利の女神像と、比較できるような作品ではありません。

小アジアでは、多くの作品を制作していたペルガモンの彫刻工房で作られた作品に、勝利の女神像により近いものがいくつかあります。サモトラケのニケについて話すとき、ペルガモンの大祭壇、特に祭壇の基壇を帯状に装飾しているギガントマキア、巨人族と神々との戦いの場面は、想起せずにはおけません。百人ほどの神々や女神、怪物のような巨人たちが、非常に立体感をもって彫刻され、烈しい戦いの中で、しのぎを削っています。力強い体、誇張された姿勢と身振り、アクションの勢いなどをみると、この帯状装飾と勝利の女神像とが驚くほど似通っていることがわかります。二つの作品それぞれの並外れた手法を見ると、残念ながらその名前は失われてしまいましたが、これらは同じ彫刻家による創作かもしれません。

サモトラケのニケが神々に奉献された年、あるいは、この像が記念している海戦の勝利の年はわかっていません。マケドニアのフィリッポス5世が即位した紀元前221年から、地中海東方での海戦がどんどん増えていきます。紀元前197年のフィリッポス5世の敗戦、そしてペルガモン王国と戦っていたアンタキアの君主の、紀元前189年の敗北で終息します。 そのあとでは、この勝利の女神像を海戦の勝利の記念に神殿に建造するほどの機会は、しばらくありません。おそらく、勝利の女神像の彫刻家は、紀元前220年から185年までの間にサモトラキ島に滞在し、その後、ペルガモンの大祭壇の装飾に参加したのではないかと考えられます。
前442-前432年
アテナイ、アクロポリス
大理石
ロンドン、大英博物館
イリス、パルテノン神殿の西のペジメントの彫像
前442-前432年
アテナイ、アクロポリス
大理石
ロンドン、大英博物館

© Erich Lessing
前442-前432年
アテナイ、アクロポリス
大理石
ロンドン、大英博物館
アルテミス、パルテノン神殿の東のペジメントの彫像
前442-前432年
アテナイ、アクロポリス
大理石
ロンドン、大英博物館

© The Trustees of The British Museum
前7-前1世紀のギリシアの地図

© Musée du Louvre 古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門資料課
前265-前260年頃
アテナの神殿、リンドス、ロードス島
ラルトスの大理石
In situ
前方斜めから見た船の舳先の形をした台座
前265-前260年頃
アテナの神殿、リンドス、ロードス島
ラルトスの大理石
In situ

© 22nd Ephoreia of Prehistoric and Classical Antiquities, Rhodes
前200年頃
アテナの神殿、リンドス、ロードス島
船尾を表した浮彫り
前200年頃
アテナの神殿、リンドス、ロードス島

© 複写・複製を禁じる
前200-前150年
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)
剣を持った女性像
前200-前150年
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)

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前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)
ペルガモンの大祭壇
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)

© BPK, Berlin, Dist RMN / Johannes Laurentius
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)
ギガスのアルキオネウスと戦うアテナ:大祭壇東側の帯状装飾
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)

© BPK, Berlin, Dist RMN / Johannes Laurentius
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)
トリトンとアムピトリテ(細部):大祭壇西側の帯状装飾
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)

© BPK, Berlin, Dist RMN / Johannes Laurentius
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)
フェーベとアステリア:大祭壇南側の帯状装飾
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)

© BPK, Berlin, Dist RMN / Johannes Laurentius
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)
ギガスのアルキオネウスと戦うアテナ:大祭壇東側の帯状装飾
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)

© BPK, Berlin, Dist RMN / Johannes Laurentius
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)
トリトンとアムピトリテ(細部):大祭壇西側の帯状装飾 
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)

© BPK, Berlin, Dist RMN / Johannes Laurentius
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)
トリトンとギガス(細部):大祭壇西側の帯状装飾
前2世紀
ペルガモンのアクロポリス
大理石
ベルリン、 ペルガモン博物館、Antikensammlung (SMPK)

© BPK, Berlin, Dist RMN / Johannes Laurentius
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勝利の女神と天使

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ギリシア人は、非常に早くから、平和、幸運、復讐、正義といった概念に女神の姿を与えていました。勝利は、これらの擬人化の最も古い例の一つです。 戦争や陸上競技における勝利のニュースを、地上全域に伝達するため飛べるように、大きな翼をもった女性の姿をしていました。 勝利の女神は、メッセンジャーなのです。(ギリシア語では、アンゲロスです。)時には、トランペットを鳴らして、注意を促します。 冠や、細い帯、シュロの葉、武器飾り、船飾りなど、勝利の印を飛びながら、勝利者に運んできます。ひとたび地上に降りると、勝利者が神々に感謝を示して執り行うや、生贄(いけにえ)を捧げる儀式に参加します。

非常に装飾的な姿をした勝利の女神は、早くも紀元前6世紀のアルカイック期から、ギリシア芸術の到るところに現れます。彫像、浮彫り彫刻、壺、貨幣、テラコッタの人形、ブロンズの小さい像などで、実に豊富な図像があります。ギリシア美術の変遷に従って、勝利の女神の表現も絶えず変化していきます。そして、ヘレニズム時代には、サモトラケのニケが伝えるように、さらに、驚異的な創作の対象となったのです。

ローマ人は、勝利者としてギリシア世界に侵入した時、勝利の女神像と出会い、ただちに、女神像を自分たちの芸術に採り入れます。こうして、女神像は、この世界のローマによる支配を象徴するものとなり、皇帝の権力と、ローマの民衆の徳を体現することになるのです。勝利の女神は、地球儀の上に置かれたり、皇帝に冠を授けたり、ローマの民衆の栄誉を記した楯を持った姿で表わされます。 しかし、これは、立ち姿で、胸の高い位置で帯を締め、折返しが腰まで落ちているキトンを身につけているというギリシアの表現から離れることはありませんでした。

キリスト教と共に、神のメッセンジャー、天使が現れます。天使は、神のそばにいて、神の力と栄誉を明示し、天体球と十字架を持っています。 しかし、天使が、ギリシアとローマの勝利の女神から、その役割の一部を引継いでいるとはいえ、その姿は、明らかに異なったものです。後光がある他にも、初期キリスト教時代の天使は、古代風の男性の服装をしています。幅の広い袖がついた長いチュニックで、胸に斜めの襞のある、あるいは肩の上で折り返しの入った、パリウムと呼ばれる長いマントです。 翼を持ったメッセンジャーは、天空から地上に舞い降り、神の意志を人間に伝えます。

天使の服装が女性的になるのは、中世末期になってからです。マントの襞は、スカーフに変わり、チュニックは、袖を絞って、高い位置に帯を締めた優雅なドレスになります。 そういうわけですから、15世紀のイタリアの古代の模範の復興で、勝利の女神像のタイプと天使のタイプが、混同するほど似通った姿になったのも、驚くことではありません。しかし、それぞれの背景を考えれば、勿論、間違うことはありません。
前5世紀前半
ブロンズ
高さ12.3cm
パリ、ルーヴル美術館, Br1679
ニケ(勝利の女神):飾り小像
前5世紀前半
ブロンズ
高さ12.3cm
パリ、ルーヴル美術館, Br1679

© Photo RMN / Hervé Lewandowski
前301-前292年
銀
パリ、フランス国立図書館、メダル所蔵室
デメトリオス・ポリオルケテスが描かれたコイン
前301-前292年

パリ、フランス国立図書館、メダル所蔵室

© Bibliothèque nationale de France
前490-前480年頃
粘土
高さ32.3cm
パリ、ルーヴル美術館, S 3853
アッティカ赤像式アンフォラ 、ドゥーリスの作とされる
前490-前480年頃
粘土
高さ32.3cm
パリ、ルーヴル美術館, S 3853

© 2008 Musée du Louvre / Sophie Marmois
前420年頃
オリンピア
パロスの大理石
高さ2.11m
ギリシア、オリンピア博物館
メンデのパイオニオス
オリンピアの勝利の女神
前420年頃
オリンピア
パロスの大理石
高さ2.11m
ギリシア、オリンピア博物館

© 複写・複製を禁じる
前2世紀前半
ミュリナ
粘土
高さ29cm
アテネのフランス考古学学院からの寄付
パリ、ルーヴル美術館, Myr 165
ニケ(勝利の女神)の小像
前2世紀前半
ミュリナ
粘土
高さ29cm
アテネのフランス考古学学院からの寄付
パリ、ルーヴル美術館, Myr 165

© Photo RMN / Hervé Lewandowski
紀元176-180年
ローマ
大理石
高さ3.50m
ローマ、Palazzo dei Conservatori, MC 0808
凱旋式で戦車に乗ったマルクス・アウレリウスの浮彫り、マルクス・アウレリウスの凱旋門に由来
紀元176-180年
ローマ
大理石
高さ3.50m
ローマ、Palazzo dei Conservatori, MC 0808

© Erich Lessing
古代ローマ時代
テラコッタ
直径10cm
パリ、ルーヴル美術館, CP 4409
古代ローマ時代のランプ(勝利の女神)
古代ローマ時代
テラコッタ
直径10cm
パリ、ルーヴル美術館, CP 4409

© Photo RMN / Droits réservés
紀元6-7世紀
モザイク
キプロス、パナギア・アンゲロクティスティ修道院
《大天使ガブリエル》
紀元6-7世紀
モザイク
キプロス、パナギア・アンゲロクティスティ修道院

© 複写・複製を禁じる
紀元6世紀初頭
モザイク
ラヴェンナ、身廊の最上段
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂、《民への裁き》(細部)
紀元6世紀初頭
モザイク
ラヴェンナ、身廊の最上段

© 1990. Photo Scala, Florence - courtesy of the Ministero per i Beni e le Attività Culturali
1490-1500年頃
木の板、彩色
縦1.58m、横1.07m
パリ、ルーヴル美術館, INV 1410
カルロ・ブラチェスコ
《受胎告知》の祭壇画
1490-1500年頃
木の板、彩色
縦1.58m、横1.07m
パリ、ルーヴル美術館, INV 1410

© Photo RMN / Jean-Gilles Berizzi
15世紀
フレスコ画
縦2.30m、横 3.21m
イタリア、フィレンツェ、Museo di San Marco,  OBN-F-000057-0000
フラ・アンジェリコ
《受胎告知》
15世紀
フレスコ画
縦2.30m、横 3.21m
イタリア、フィレンツェ、Museo di San Marco, OBN-F-000057-0000

© Alinari Archives, Florence, Dist RMN / Nicolo Orsi Battaglini
15世紀
絵画
縦1.50m、横1.56m
イタリア、フィレンツェ、 Galleria degli Uffizi
サンドロ・ボッティチェッリ
《受胎告知》
15世紀
絵画
縦1.50m、横1.56m
イタリア、フィレンツェ、 Galleria degli Uffizi

© Photo RMN / Agence Bulloz
18世紀
アラバスター
ベルリン、Marienkirche(マリエン教会)
アンドレアス・シュリューター
彫刻の施された説教壇
18世紀
アラバスター
ベルリン、Marienkirche(マリエン教会)

© 2008 Valérie Foret
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